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02.03.2003
 
コアメンバー

坪井 りん
1978年 東京うまれ

レナタのこと

レナタは、心の深度みたいなものがとても深い子だった。彼女とは本当に長い時間をともに過ごした。たくさんの事をしゃべった。だが、彼女はもしかしたら言語をあやつるのが苦手なのかもしれない、と気付いたのは、知り合って間もなくの事だった。会話の中で、ふっと彼女から出てくる言葉の意味がまったくわからない。今まで話していた事とまったくつながらない言葉が出てくる。なぜそんな言葉がでてくるのかを、よくよく聞いてみてもわからなかったりする。おそらく彼女の頭の後ろの方では、私や他の人と異なった時間が流れていて、それがかみあわない言葉として出てくるのだろう。そう思って、むしろそのわからなさにも惹かれて、私と彼女は本当に長い時間をともに過ごした。

レナタはリトアニアという旧ソビエトの国の出身で、それまで美術などに触れたことがなかったのだが、私もかよったその学校で美術を選択した。はじめはおそるおそるだったのだが、時を経るにつれ、彼女の成長ぶりははたからみていても、目をみはるものがあった。レナタは自分の言っている事が他の人にまったく伝わらなかったり、ずれてしまう事におそらく彼女自身も敏感に気付いていて、だから友達もあまりいなかった。それが自分の作る作品に自信がでてくるにつれ、レナタ自身も自分に自信を持つようになっていくのがおもしろかった。
そうして、最後、卒業前に行われた展覧会では、彼女の作品が他を圧倒していた。

私は彼女の作品を見たとき、ようやく、彼女の頭の中でだけ流れていた時間がどんなものだか、少しわかった気がした。びっくりしたし、泣きそうになった。彼女が何度も言葉で伝えようとして、どうしても私にわからなかったもの。それが初めてわかった。私にやっと伝わったことは彼女にもわかったのだろう。2年間を終え、離ればなれになる前夜、彼女はその絵を私にくれた。

そのレナタとの出会いが、そして彼女の作品との出会いが、私の美術との出会いだった。それは強烈なもので、その後、機会さえあれば、色々な作品をみてまわるようになった。

始まりがそこにある。だからかどうかはわからないが、私がいろんな作品を見ているとき、もとめているものは、作者の根っこにあるものが、その作品を通じてかいまみえてくことだと思う。その根っこにあるものというのは、その人がどうしても興味をもってしょうがないことや、その人にだけ見えている世界のようなもの。ただそのままでは、自分をよく知っている人以外には伝わらないから、それを表現という方法で一般化し、第3者に伝わりやすくする。そうしてもえらえると、たとえ作者をよく知らない人でも、アクセスできるし、その人の根っこにあるものをかいま見ることができる。私にとってよい作品とは、根っこにあるものを、上手に一般化して他の人にも伝えているものだ。そして、好きな作品は、そのかいまみえてくるものに、自分も共感したり、感動するもの。

しばらくして日本に帰ってきてから、いっそう美術に興味をもったのは、そうした欲求がより大きくなったからかもしれない。もともと友達は少なかったのだが、学校という場をはなれ、自分と違う世界を生きている人とのコンタクトがほとんどなくなった。自分の友達のことはよくわかるけれど、そうじゃない人が、本当に何を考えていて、どんなものを見ているのか、それがまったくわからなかった。ある程度年をとってしまうと、世間話からはじめて、そうした事を伝え合える関係を築く余裕も興味もあまりなくなってしまうからなのかもしれない。
だから美術をとおして、知りたいと思った。

そんな期待が肩すかしをくらったのは、なんだかみな一般化する方法だけはすごくうまいけど、そこの根っこをみせてくれるような作品があまりにも少なかったから。完成度は文句なしに高いけど、根っこがみえてこない。見えてきたとしても、全然共感しなかったり。

そう思ったとき、なにも今美術をやっている人に全てを求めなくともいいのかもしれないと思った。今ある発表の場というのは本当に限られているし、そこにでてこない埋もれている作品というのは、あまりに多いはずだ。それに、そもそも美術を今やっている人だけが、根っこを持っているわけではない。そのきらきらを持っている人は、他の場所にもたくさんいるはずだ、と。一般化するというのは、ある程度は技術の問題でもあるから、その技術がもう少し流布すれば、いままで隠されていたキラキラに出会えるかもしれない。

みんながみんな美術や表現をやらなくともいいと思う。その根っこのキラキラを文章なり、他の方法で他人に伝える方がうまい人もいるだろう。一般化するのも得意な人と苦手な人がいる。そもそも自分の世界をちゃんと持っている人だって限られているかもしれないし、まして私自身の個人的好みとあう人となると、いっそう少なくなってくる。キラキラと一般化の技術両方を備えた人は希有な人だろう。でも美術なり、表現の門戸はあまりにも閉じられている、そう感じるから、そこに可能性はまだあると信じている。

もっとたくさんの人の世界を見えるかもしれない。もっとたくさんの人の世界を見てみたい。「もしかしたら仲間を探しているのかもしれない。」そう思ってQuake Centerの活動をやっている。(Feb. 28, 2003)

*出典:うちの姉


Ongoing vol.01 作家シンポジウムより:

 今まで参加してくださった作家の方の感想を聞いていると、すごい関係性ができたっていうことに意義を感じてるっていうのが。それはもちろん私自身も思っていて。でもそれを聞いていてふっと思ったのは、今会場でこっちからこっちが参加作家、こっちは来てくださった方、という風な構図になっているけど、実は今いる人は、誰もここ(参加作家側)にいれた。一番始めは、表現したい人、誰でも参加してください、っていう形で参加を呼びかけていて。関係性ができた、っていう一番最初はここ全体から始めえれた。

 今回Ongoingで試みたかったこととか、それをやるにあたって考えたことはいろいろあったんですけど、ひとつは、表現とか、美術とか、どこの誰かわからない人がやっているんではなくって、顔の見える誰かがやっていること、生身の同じように今っていう時代を生きている人がやっていて、それを多くの人にみてもらいたい、っていう思いがありました。実際今回、数の上で多くの人が来てくださって、こういった思いが来てくださった方に伝わればいいと思います。




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