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22.02.2003
 

Web basedプロジェクト Vol. 02:
If performance collective / een hond begraven (burying the dog)

2002年1月8日〜27日
Battersea Arts Center, London
テキスト:坪井あや

 映画にしろ、本にしろ、美術にしろ、舞台にしろいわゆる芸術に触れたいと思う1つの大きな要素は、誰かの個人的に重要な何かを、できるかぎり追体験したいというのがある。今回はもう1年も前になるが観た「een hond begraven (burying the dog)」を、まさに観たいものを観ることができたということで紹介しようと思う。

 誂えを簡単に説明しておくと、ごく狭い横長の空間を、水平に割って半面がステージ。半面が4段程段を組んで客席にしてある。
出入口はステージ側にあり、来場者は客席へ舞台を横切ってゆく。
後になってわかるが、客席まで案内しているのは出演者だった。

 舞台はアムステルダムのポール(登場人物1)の部屋。
中央手前、客に背をむけて大きめのソファ、左手に大きなダイニングテーブルセット、右手にキッチンとその奥にトイレがある。
背景は、どーんどーんどーんと、3枚の巨大な油絵で占められている。人物がカフェでお茶してる姿などを、1点に一人ずつ強い線と原色に近い色味で描かれたもので、人物の他はあまり書き込まれておらず、全体に白っぽくてすかすかした感じがする。きれいというよりは、微妙にぼけた気味の悪い過剰さがにじみでていて、その他のセットが使い込まれて飾り気のない生活を感じさせる道具然として好ましさを感じるだけに、違和感を感じる。
人の出入りはほとんどなく、照明も変化しない。音楽も、ほぼ舞台上にあるオーディオキットを出演者が操作するだけ。

 出演者は3人。当時アムステルダムで編集者をしていた男と恋人とその男の兄。
劇は、そのソファの背に3人が窮屈に腰掛け、客席に向かってこの物語の背景を説明するところから始まる。当時何を生業としてどういう生活をしていたか。なぜ今夜この劇を上演する必要があり、来場者が見る必要があるのか。
このとき出演者は客席1列目に座っている観客とは膝がつく感じの近さ。

 3人のうち1人から、この絵を背景として使っている経緯と販売してる旨の説明があった後、さあいいね、と出演者同士顔を見合わせ気合いを入れておもむろに劇になる。中途中途では、客席に向けて出演者自身により、その行動の解説が入る。盛り上がってるその場についてゆけない別の仲間にかいつまんで背景を知らせるように。

 このように、来場者は舞台を横切って客席に着く。出演者が客席まで案内する。ごくごく近い距離で舞台を繰り広げる。舞台上で音の操作をする。なぜこれを今日演じているのかを来場者に説明する。その絵がそこにある理由と、今日販売している旨を説明する。中途中途で登場人物の行動を解説する。など、神聖で犯しがたい非日常としての舞台というありかたではなく、等身大の出演者個人を来場者に伝えようとする、抑制のきいた工夫がそこここに見られるパフォーマンスだった。

 なかでも、なぜ今夜この劇を上演する必要があり、来場者が見る必要があるのか、来場者に説明した点に注目したい。


 「これは私たち3人に実際に起きた話。特別な夜。すべてが変わった。あまりに特別だったので誰かと共有するために劇にした。私たちは毎日演じる度に新たに発見する。その都度再構築している。あの夜は特別ななにかだから、今夜、あなたの何かも変えるはず。」

 実際にはフィクションかもしれないが、ごく一般的な生活を送っていた自分たちの身に起きたある晩のことを上演していると言っている。その晩の特別さは当事者だけで占有するのではなく、もっと多くの人に伝えるべきものだから公開する。と同時に、この劇を上演することで、自分たちがその晩を何度も生き直し、学びとるためである。といった具合に、説得力をもって答えることに成功しているという点で、私にとってはその他の作品から大きく水をあけて意味を持つものになった。

 だいぶ昔はずいぶん違ったろうと思うけど、21世紀の東京は、とても安全でとても便利なので、何もしないでも日々は過ぎてゆく。起きたら夜だったり、今日も一日疲れただけで終わってしまったりする。だから何かをしなくては日々は耐えられない。でも何をするのも違う気がする。

 だから日々を軽んぜず、確かめながらごまかかさないように過ごし、後は何かが起こることを期待して待つ。あるいはせめて起きたという話をききたい。それは奇跡を求めるのとちょっとにてる。奇跡は起こるから奇跡なので、自分でなんらか手配してしまってはそれは奇跡ではない。逆に奇跡が起きたらそれは奇跡だというだけで人に語る価値がある。

 もう一点興味深かったのは、いろいろなものが混じることの面白さ、力強さを改めて感じさせられた点だ。微妙にぼけた違和感を感じさせるあの巨大な絵だ。

 セットなので、2時間弱の間ある種強制的に見せ続けられることになる。その間、絵は常に目には入っているが、意識はもっぱら繰り広げられる登場人物たちのやりとりに行くのでその存在を忘れている。しかしふと絵に意識がいく瞬間がそれも度々あり、その都度存在を感じ直すことになる。そしてまた劇に向かう。

 最後の瞬間演者はステージから去り、目の前には絵を含めた舞台セットだけがある。ここで、道具然としたセットは始まったときと取り立てて何も変わらず空間になじんでいるのに対し、その絵は、繰り広げられた劇を2時間かけて吸着していた。今やこちらのピントをあわせさせ、微妙にぼけていたはずの違和感は、その絵に独自の方法でしんと語るよう、変わっていた。

 さして興味をひかれない絵に長い間接し続ける機会は普段あまりないが、劇という構造と組み合わさることにより、一方で絵はゆっくりと時間をかけて観客に存在を浸透させていくことが可能となり、もう一方で劇は、始まってから終わるまで一定期間継続する間をその絵の存在が効果的に断続することにより、観客の集中力を保ち続けることを可能にしていたのだ。(坪井あや)


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