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参加者からの声 ー主催としてー
Ongoing vol.01に携わった人、3つの立場から寄せられたコメント
主催のQuake Centerの一員、飯田豊さんの考えるOngoingの未来像について。
六本木の俳優座裏手にある、2年前に廃校となった三河台中学校の旧校舎。その大部分を展示空間として使用した本展では、映像やインスタレーション、絵画や写真など、さまざまな表現形態の作品が多数発表された。4階角部屋の音楽室を改装したカフェには、出展作家の小品やカタログが並べられており、そこは語らいの場として、また一回性のパフォーマンス、あるいはシンポジウムの場として、常に賑わいを見せていた。
この企画展覧会を主催したのは、Quake Center(クウェイク・センター)と称する小さな団体である。表現という手段を通して、この時代を形作っている輪郭のようなものが見えてくるのではないか―そんな緩やかな意識のもと、それぞれ異なるバックグラウンド(美術、建築、音楽、工学など)を持つ大学院生を中心として昨年の春に発足した。Quake
Centerにとって初の実践的活動となった本展は、まず<1970年代生まれ>の作家を対象に広く参加を呼びかけ、応募者51名の互選によって、22名の作品が常設展示として選出されたのである。
つまりOngoing展は、いわゆる<美術関係者>の眼を通った若手作家の展覧会ではない。
現行の公募展に目を向ければ、作家と主催者の立場が構造的に乖離していることで、その多くは作家の主体的な関与が著しく制限されている。それは同時に、キュレーションという伝統的な制度が介入することで、それぞれの作家が抱える関心領域の交錯する地平が隠蔽されてしまうことを意味する。知られるようにキュレーションとは元来、コレクターとしての美術館の誕生とともに、各美術館の個性や作家の特徴を研究する学問として、そして芸術史・文化史の流れに則した体系的な展示や説明のための学問として、18世紀末から19世紀にかけて立ち現れてきたものである。
無論その意義は現代においても直截に否定されるものではないし、その伝統に対して反動的な態度を示すことが本展の目的でもない。しかし少なくとも、現代(=今、ここ)においてクリエイティブであることを目指す人たちの多くが、このような<既成の枠組み>に対してある種の閉塞感を共有していることは疑いないのではないだろうか(もっともそれは、必ずしも現代に特有の現象ではない。19世紀的環境に起源を持つ芸術史が当初、己れの特権的な対象として古代やルネサンスの造形芸術を選択し、同時代の作品を説明図式から排除せざるをえなかったことの意味を考えてみてはどうだろう)。
実際、「参加に迷いはあったけれど、同世代の人と関わる機会になればいい」と、ともすればナイーブにも響く<70年代生まれ限定>という応募資格に、多くの才能が前向きな意義を見出していたのが印象的だった。そして、表現の舞台を創造するプロセスを共有することによって、展示物を鑑賞するという方法とは根源的に異なる形で、互いに批評を磨くことができるのではないか―このような期待のもとに全ての関係者が、各自の立場からこの企画への関わり方を主体的に模索し、今回のOngoing展に結実したのである。
しかし、各作家の主体性を重んじる反面、その総体としての曖昧さが批判を招いたことも否めない。限られた時間のなかでは止むを得ないことだが、参加者各自の意識の断層をあまり問題化することなく、むしろその歪みを内包しながら漸進してきた感がある。特殊な関心を共有するゲットーと化さないことは重要だが、その反面、参加者一人一人の価値観や方法論に対して根源的な問いを投げかけてみることも、次の一歩を踏み出すにあたって、決して無駄ではない。
しばしば<敷居が高い>という言葉に象徴されるように、(音楽をほぼ唯一の例外として)芸術文化が鑑賞者に対する訴求力を欠いている現状は改めて指摘するまでもない。こうした現実を前に、観客を含む参加者の関わり方そのものを組み換え、その関係性を問い直そうとする諸実践のなかで、Ongoing展は一つのメルクマールとなるだろう。(飯田豊/Quake
Center)
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