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参加者からの声 ー来場者としてー
Ongoing vol.01に携わった人、3つの立場から寄せられたコメント
Ongoing に来場いただいた一人、藤本玲さんから。
中学校でアート?でもそれは確かに六本木の真ん中にあった。傾きかけた光の中に、葉桜とグラウンドが浮かびあがる。(中学校なんて、何年ぶりだろう)と昇降口(考えてみればこの言葉も懐かしい!)で案内パンフを受け取ったときは、自分の現在の年令や立場があやふやになり、まるで自分の学校の、授業中に忍び込むような緊張と興奮につつまれた。誰か知ってる先生や生徒に会ったらどうしよう、なんてね。実際は、廃校なのだけれど。
「1年2組」「理科室」引き戸の軽さがまた現実感を薄くする。が、そこに足を踏み入れたとたん、「肉」の匂い。薫製の、肉人形(LEGO)が、ずらっと実験台の上に整列している。しかもこの肉人形、妙に色々な部分が「削れて」いる。その前にナイフとフォーク。どう見ても異様な光景なのだけれど、横には観客にせっせと「試食」を勧める作家の姿が……。これってアートを「味わえ」ってことかしらん。
やはりこのOngoing展は曲者かもしれない。淡いノスタルジーがワクワクするような興奮と共に存在するのだ。つられて次の教室、次の階段というように、観客は行きつ戻りつしながら作品を楽しんでいる。しかも美術専用展示スペースと異なり、隣の人の私語が、聞こえてくる。「廊下の双子、見た?」「見たよー、恐いんだけど」と言うように。
3階の暗室ではアニメーションが上映されていたが、暗闇に浮かぶ子供や不思議な光景は、まるである人物の死後、箪笥の引き出しにしまってあった木の小箱を覗き込んだ気分にさせられる。秘密、思い出、夢幻。学校の廊下に響く人の足音すらも作品の境地に彩りを添えていた感がある。学校と言う、観客にとってはすでに過去の場所から、そのまたさらに過去へと、頭からとろんと引き込まれる展示だった。
作品によっては作家本人とおしゃべりする事も出来る。別に作品についての詳細な説明でなくてもかまわない。作家自身が日頃どんなものを見聞きし、感じているか。そんなたわいのないことを知るだけでも作品の理解力というのは断然違ってくるものだ。そして作家も、観客の感想をリアルタイムに得ることが出来、自分と異なる視線を知る事もできる。この意味で、このような関係は両者にとって理想的な展覧会の形にひとつだろう。
また、グループ展の最大の弱点のひとつは、お互いの共有点を探すあまり作家個々人の、制作に繋がる純粋な衝動に歯止めがかかり、最終的には全てトーンダウンしたものになる危険性があることだ。けれどこの展覧会は、最初から価値観の共有点を探すことを否定するところから始めているらしい。それが作家を良い方向に解放し、会場全体をみると「この教室では驚き」「この教室では色を堪能し」「この教室では切なくなり」というように、緩急の幅が大きい空間構成になっていた。
あるグループが、「全員一致のステートメント」を持たない=「烏合の衆」ではないのは明らかだ。共有性というものは精神や価値観のみに見い出すものとは限らない。バラバラにみえるようでも、会場に展示された作品群の素材をみると、70年生まれの作家達がいかに多種多様な素材の選択権をもっていて、どのように選んだかが、おぼろげながら浮かび上がる。色鉛筆、油絵の具、蜜蝋、ビニール、プラスチック、写真、ヴィデオ、CGなど。同じ30年でも、ここまで急速に幅広い選択肢にさらされた作家の世代は今までにないのではないだろうか。60年代(生まれの作家作品)よりは遥かに軽やかな感じを受けるが、80年代よりはメディアに抵抗感をもちあわせる。そんな70年代生まれの彼等が一番最初の展覧会場に美術館でもなく、メディアセンターでもない、「廃校」を選んだのは正解かもしれない。
過去と現在を小部屋で行き来したような、楽しい気分ですっかり陽の落ちた校庭に出た。もう葉桜はすっかり彩り鮮やかなネオンの光をわずかにその葉に受けるだけだ。門をくぐるときふと後ろを振り返ると、教室の窓からむちむちにはち切れんばかりの青いビニールボールがからかうようにこちらを見下ろしていた。(藤本玲)
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